おもうに

Our output wish us to be beyond them.

"勉強"の不運について

「勉強するのは好きですか?」という問いに、みなさんはどう答えるだろうか。NOと答える方が多いようにおもうし、YESとおもっていてもNOと答える方が無難、という方もいるようにおもう。一方で、「遊ぶのは好きですか?」という問いは、ほとんどの方がYESと答えるようにおもう。この[勉強]と[遊び]について、少し考えてみたい。

自分はいま、縁あってプログラミングのスキルを積んでいる。誰かに言われたからとかではなく、自発的にやっているのだけれど、これがとても楽しい。言語やフレームワークに触れていると、業物の機能美をみているようで、いちいちため息がでてしまう。機能を知るだけでも楽しいのに、それを使っていろんなアイデアを形にできるとおもうと、もうわくわくが止まらない。これが[勉強]か[遊び]かと問われれば、間違いなく[遊び]だ。

ところで、どうやってスキルを積んでいるかといえば、参考書や教材にお世話になることが多い。「教材で学ぶ」と聞けば[勉強]が連想されるのではないだろうか。実のところ、自分もそうおもってしまう。自分の内から見れば[遊び]でも、少し離れれば[勉強]に見える。これは、かなり根深い問題のようにおもう。というのも、[遊び]になりえるものが、[勉強]と言われるために、まだそれに触れていない方がネガティブなイメージを持つかもしれないからだ。実は相性抜群かもしれないのに、出会い損ねてしまう。これは、不運だ。

そもそも[勉強]と[遊び]とはどういうものだったか?自分の経験からながめてみると、「強制される」のが[勉強]で、「強制されない」のが[遊び]だった。行動心理学の実験で、パズルを[仕事]として取り組むか[パズル]として取り組むかで、パズルに対するモチベーションが大きく異なる、という話がある。[仕事]として取り組むと、特別な報酬がない限り、パズルを自発的に取り組む人はほとんどいなくなった、という内容だけれど、[勉強]と[遊び]にも、これに近いことが起こっているのではないだろうか。[勉強]のレッテルを貼ること自体に、危険な要素があるようにおもう。ただ、なぜ[勉強]のレッテルが貼られているかといえば「学んでほしいから」なので、これも不運とおもう。

どちらにしても、渦中の方々にその不運を認識してもらうのは難しい。一筋縄ではいかないだろうけれど、その不運を取り除く手助けができれば、それは素敵なことだろうな、とおもう。

今日もおもうにをありがとうございます。自分にこどもができたときは、できるだけ[勉強]はさせないようにしたいな、とおもいます。